History
鶴屋八幡について
明治15年(1882年)「商工技芸浪華の魁」より
大坂の老舗菓子店
鶴屋八幡の技法は、約320年前の元禄時代まで遡ります。
摂津名所図会
鶴屋八幡の技法は、約320年前の元禄時代まで遡ります。元禄15年(1702)創業で、江戸時代の天下の台所と言われた上方で高名であった、老舗菓子店 虎屋伊織が起源になります。正確には、虎屋大和大掾藤原伊織(とらややまとだいじょうふじわらのいおり)と言い、店の間口は六、七間もあり、その隆盛ぶりは『東海道中膝栗毛』にも登場します。『摂津名所図会』寛政10年(1798)には、百花群がる盛況ぶりが描かれており、旅人が土産を買い求める姿や、菓子切手(商品券)を商品と交換しようとしている姿が伺えます。
その菓子切手こそ、江戸時代に発行された最初の商品券だと言われています。菓子切手は別名、『饅頭切手』とよばれ信用は絶大で、大坂内外で贈答用として盛んに用いられ近松門左衛門(1653~1725)が歌に詠む程流行し、後に羊羹や生菓子の切手も発券しました。
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菓子切手
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東海道中膝栗毛
大坂の名物
形小にして銭を咬むに似たり
品質管理の面でも高麗橋三丁目の町年寄が、大坂名物の誇りを失うまい との配慮から、時々取り寄せて目方を検査していました。
江戸末期の著名な随筆『守貞漫稿』にも「大坂は高麗橋三丁目 虎屋大和 大掾藤原伊織なる者諸国に名ありて頗る巨店也 饅頭出島さとう製一つ価 五文也」と書かれております。
当時の饅頭といえば二、三文が相場でしたが、長崎出島の白砂糖に泉州日根野 の大粒大納言小豆を使い、一つ五文で『青物詩選』享和3年(1803)に 「形小にして銭を咬むに似たり」と書かれながらも繁盛したのは、味と老舗 の格がものを言ったのかもしれません。
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青物詩選
絵本「淀の流れ」
菓子を食する女性 -
中程 とらやいおり 文政6年番付表
伝統の継承
伝統を継承し文久三年(1863年)創業。
明治の製造風景
江戸時代の商人番付にも度々登場し、幕末まで九代に亙り繁盛しましたが、 九代目当主 竹田七郎兵衛が病弱のうえ実子が無く、そこへ動乱期の世情不安 が重なり、160年続いた老舗も商いが行き詰まりました。
困ったのは、大坂のお茶人達でした。 当時は饅頭が有名でしたが、お茶席用の上生菓子が主力でその数800種程あり、大阪城にも記録が残り、大名や鴻池家等の豪商、お茶人など顧客それぞれのお好みも心得ておりました。
そこで幼少の頃より縁あって奉公し、主人より厚い信頼を得ていた今中伊八が、お茶人や贔屓筋と九代目当主から「このままでは、連綿と受け継いだ我家製法が、途絶えるのは忍びない。幸い、そなたは幼少の頃より奉公し我家製法を修得し顧客の信頼も厚い。以って別に居を構え我家製法を後の世に守り伝えなさい」(初代の書き残した「虎屋大和大掾藤原伊織由来略伝」より)との有難い仰せがありました。
また、主家に原料を収めていた八幡屋辰邨からの「商売の見通しが立つ迄、心置きなく材料を使ってよいから」との願ってもない後押しもあり、伝統の火を消すまいと、虎屋伊織の職人達と製法、技術を踏襲し、文久3年(1863)に同じ高麗橋に心機一転、鶴屋八幡として暖簾を掲げました。
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創業者 今中伊八
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大正時代の店舗
鶴屋八幡由来書(明治時代)
屋号の由来
今中家は、代々大坂で刀屋を営んでおりましたが、その昔、実家の家の庭に鶴が巣を作った瑞祥と、恩人である八幡屋辰邨さんのご恩を忘れまいと「鶴屋八幡“つるややはた”」と命名し、今では“つるやはちまん”と呼び慣らされています。
創業当初からの社是
『隨尊命調進応貴旨精製』
(ご満足のゆく品物を真心込めてお作りする)
大正元年の看板
主家への恩義
「人と人」、そして「人と和菓子」の出会いを大切に。
江戸時代より書き留めた多くの菓子帳は、現在も鶴屋八幡の菓子の基本 となっており、代々大切に保管しております。
また、主家には遺族がなかった為、主家代々の墓石を初代伊八が明治時代に修復し、160年を経た現在も守り続け、ご恩に報いるべく毎年創業記念日に幹部社員 一同で法要を営んでおります。
創業より多くの人々に支えられてきた弊店。それだけに人と人、そして人と 和菓子の出会いを大切に、これからも精進を重ねて参りたいと存じます。
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菓子帖(江戸時代)
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萬控帳(安政三年)
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虎屋伊織が菩提寺に寄進した梵鐘
宝暦八年三月十九日(1758)